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2013-08-01 新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える:槇文彦-「JIA MAGAZIN vol295」
新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える:槇文彦

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 日本の人口は今年をピークとして以後減少に向かう。その減少率は世界先進国の中でも最大で、2050年には現在人口1億2千万人が1億人になるという。15%以上の減少率である。もちろん、人口減少は地方小都市においてより顕著であり、東京は若干緩慢であるという。しかし少子高齢化は当然並行して進み、特に東京住民の高齢化は高いパーセンテージで進むという。そのことは税収入の退化、医療費の増加化を意味し、国家、地方自治体に大きな負担を与えるものであることは想像に難くない。それは直ちに巨大施設の維持、管理費の問題としても現れる。

(中略)

 また、プログラムによれば、この施設の総床面積は29万m2になる。その規模は国立代々木競技場の8倍、東京国際フォーラムのそれの2倍を超す。この巨大で、様々な複合施設を維持していく上で必要なエネルギーの消費量、管理に必要な人件費、それらを賄う収入の見通しと、その見通しを支える将来の市場性等について、この施設運営者は都民に対して充分な説明責任があるのではないだろうか。何故ならばその可否は都民が将来支払う税に密接に関わりあっているからである。換言すれば、17日間の祭典に最も魅力的な施設は必ずしも次の50年間、都民、住民にとって理想的なものであるとは限らないからである。 

(中略)

 さらに重要なことは、既に述べてきたように濃密な歴史を持つ風致地区に何故このような巨大な施設をつくらなければならないのか、その倫理性についてである。そしてその説明は現在の我々、将来の都民だけでなく、大正の市民にまで及ばなければならない。何故ならば神宮外苑、内苑の造営には、当時唯一の言論のメディアであった新聞も含めて、国民、市民の意見も活発に反映されていたからである。その造営は単に一群の識者によって施行されたものではない。

 それでは日本に市民社会は成立したのだろうか。江戸の徳川幕府は300年にわたって、さしたる反乱もなくその主権を維持してきた。これは世界の政治史でも稀にみる例である。その封建社会は当然、divide & rule、つまり分割統治が基本原則であった。 次に、常に存在した仮想敵でもあった大名群には参勤交代という制度を幕府は敷いた。これは島国である日本において初めて実行可能なシステムであり、地続きが多い大陸の国々では不可能なシステムである。そして多くの庶民を集め得る広場の代わりに、社寺境内も含む名所群が分散して設けられた。そこでは少数の武士と庶民の交流も許される数少ない場所であった。そして名所の外には吉原と歌舞伎があれば充分であり、統治歴史に比類のない空間政治学の賜としての安定した封建制度は19世紀の中頃まで存続した。そして日本は市民社会を経験することなく一足飛びに近代社会に突入する。封建社会の武士が構成した“お上”に代わって、官僚の支配する“お上”が今日まで続いていることは、よく知られている。

 したがって今回の国際コンペの特色は、“お上”の一部の有識者がそのプログラムを作成し、誘導してきたと考えてよいのではないだろうか。そしてコンペのプログラムには、前述したこの地域の濃密な歴史的文脈の説明は全くなく、コンペ参加者に与えられたのはフラットなサイトだけである。したがって私は、最優秀案も含めて海外からの応募作品の敷地に対する姿勢についてあまり批判するつもりはない。ザハ・ハディドにとって今回のコンペは、毎年世界中のどこかで行われている国際コンペの一つ(oneof them)にしか過ぎない。彼女の3Dモデリングのオペレーションの場として東京の神宮外苑もラゴスの郊外も設計対象としての差異はない。図2にあるように、近接するJR線を無造作に飛び越えた提案に、その態度の一片がよく示されている。 

 しかし日本人の場合は少し事情が異なる。そこには様々な立場の人々が参加したからであるこのような重要な施設のコンペを遂行する時に、そのプログラムの妥当性を確認するため、建築の専門家に簡単なデザインをしてもらう場合が多い。この施設の最大高さが70mとされたのもおそらくこうしたスタディの結果からと推測される。しかし屋内面積28万m2の規模はどのような根拠で決められたのだろうか。先に述べた代々木の国立競技場の8倍、東京国際フォーラムの2倍の床面積を持つこの施設は、おそらく多くの関連部局から提出された、それぞれの最も理想的な機能と規模の積み上げがこの数字になったのだろう。しかしホスピタリティ、店舗、スポーツ関連機能、図書室、博物館等に対して、代々木の総床面積を超える4万8千m2を与えていながら、それ以上の詳細なプログラムはなく、その配分は参加建築家に任せられているようだ。私自身これまで国際コンペに審査員として、また参加者として様々なプログラムに接する機会に接してきたが、これほど主催者の守備範囲の責任を放棄したものを見たことがない。このプログラムを前にて、特にコンペ参加者達はどういう気持ちでこれに接したのだろうか。おそらく懐疑、戸惑い、諦めなど、様々あったに違いない。しかしそれらの様相についても今日まで沈黙が支配し、窺い知ることもできない。もしもこれがスイスあれば、プログラムが発表された段階でまずリファレンダムが行われたであろう。プログラムに対してである。市民社会では市民がジャッジである。お上社会ではお上がルールなのだ。今回のお上は更に錦の御旗を掲げたお上であっただけに、いっそう沈黙が支配したのではないかと想像される。そして踊る会議は終了したのだが、会議だけは現在も続けられている。

古市
●槇先生は、どうしてこのコンペに参加されなかったのでしょうか。

槇 
●このエッセイの冒頭で述べているように、我々は東京体育館を現在の場所につくるのに大変苦労しました。したがってこのコンペでは、あまり敷地も広くないところでその10倍の施設をつくることは完全なミスマッチだと直感的に感じました。それが不参加の第一の理由です。そしてまた、このコンペの規約書を見た時に、これは何だと思ったのです。そこにはいくつかの国際的な建築賞を貰った建築家には一種の特典が与えられています。なぜ著名建築家だけにか。日本発の国際コンペであったので、私のような疑問をもった建築家は世界中に多数いたのではないでしょうか。国際コンペに参加することは多くの建築家にとって夢であり、ロマンなのです。シドニー・オペラハウスもポンピドゥー・センターも、当時無名に近かった建築家たちがつくった20世紀建築の代表作です。我々はそのロマンの燈火を大事に守っていきたいと思います。

■新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える:槇文彦-「JIA MAGAZIN vol295」

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