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2003-03-07 豊郷小学校保存運動にみる環境運動の新しい展開-「Asahi.com」
豊郷小学校保存運動にみる環境運動の新しい展開
大島堅一
「アジアの開発と環境」研究チーム

鉄筋コンクリート2階建て、校舎の中央部は3階建てでその部分は音楽堂。音楽堂にはステージがあり、階段にはイソップ童話「ウサギとカメ」の装飾品(写真は下記URL参照)。校舎正面左手には地域の人も利用するアールデコ調の図書館、右手には600席の固定椅子を備える講堂。校舎の正面には銀杏並木と実習農場。裏側には200メートルトラックに、プール、テニスコート、バスケットコートを備える。これが滋賀県犬上郡豊郷町立豊郷小学校だ。

2003年2月16日、日本環境会議・環境再生政策研究会が主催する豊郷小学校の現地調査に参加した。主催者、住民の粘り強い交渉にもかかわらず町側の許可が出なかったため校舎内部を見ることはできなかったが、小学校とはとても思えない大変おもむきのある建物だった。

豊郷小学校は、1937年(昭和12年)に当時の建築技術の粋を集めて建設された。設計は神戸女学院大学、関西学院大学などの設計で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズ、施工は竹中工務店が担当した。建設費用、設備費用は当時のお金で合計約60万円、郷土出身で丸紅商店(現在の総合商社「丸紅」)専務の古川鉄治郎氏が全額まかなった。60万円は、当時の古川氏の財産の3分の2にあたる。昭和初期の大阪城天守閣の再建費用がが約50万円だったというから、この金額がいかに巨額であったかが想像できよう。当時の校長は完成式の挨拶の際、感謝の涙あるのみであったという。

この小学校の解体・改築問題をめぐって豊郷町が揺れている。日本環境会議がこの地で現地調査とシンポジウムの開催を企画したのも、豊郷町が日本の街づくりや景観保全にとって重要な教訓となると考えてのことだ。

町民の願いは、豊郷小学校の全体を解体せずに保存し、校舎として利用することである。町民は古川鉄治郎が残した小学校に愛着と誇りを抱いている。1999年2月に町が公表した「教育施設整備に関するアンケート調査結果」でも、「現在の校舎及び付属建物に耐震補強を加えて、大規模改修する」と答えた町民は44.95%を占め、「現在の校舎及び付属物を一部残し、新校舎を建築する」、つまり解体・新校舎建設方針の町民は5.71%に過ぎなかった。

ところが、1999年に大野和三郎氏が僅差で町長になると、町側は態度を一転、現校舎解体・新校舎建設の方針を打ち出した。町議会も町長の方針を賛成多数で承認、予算も議決された。これに対し、反対側住民は粘り強い運動を展開したが、町は方針を変更せず、解体準備を進めていった。

住民側はこのとき機敏に動いた。2001年10月に「豊郷小学校の歴史と未来を考える会」を発足、2001年12月12日には、大津地方裁判所に対して「豊郷小学校講堂解体工事差し止めを求める仮処分申請」を行い、翌2002年1月24日に仮処分決定が下された。町側は異議申し立てを行ったものの、地裁で異議申し立ては却下された。地裁の判断を不服として町側は高裁に控訴したが、町側は解体方針を転換し講堂保存は決まった。

こうして講堂の解体は回避されたが、町側は校舎部分については解体方針を変えず、解体準備を行った。本校舎の解体が間近にせまっていることを察知した住民は、2002年8月22日に大津地裁に対して「校舎解体差し止めを求める仮処分申請」を行い、2002年12月19日に仮処分が決定された。仮処分がでるまでの間、議会では校舎解体、新校舎建設費予算が賛成多数で可決され、本校舎解体スケジュールが発表されていた。10月1日には小学校内の造成工事が開始され、10月18日にはプールの解体工事が開始されていた。まさにギリギリのタイミングで仮処分決定がなされたといえる。

しかし、仮処分がでたにもかかわらず、大野町長は解体方針を変更しなかった。12月20日の終業式直後、突如として解体工事が開始され、校舎付属の青年学校が解体されてしまった。同日、本校舎の解体工事も強行、窓枠を壊すなどの工事を始めた。この工事では、町長自身が陣頭指揮をとったとされている。解体差し止め仮処分が裁判所によって出されている以上、こうした行為は法治国家にはありえない。そもそも行政の長が司法の判断に逆らうことは法治国家では考えられない行為だ。(大野町長は住民により建造物損壊罪で滋賀県警に告訴・告発された。)

反対側住民は、校舎に立てこもって解体工事再開を阻止、12月24日にはついに町長側も保存の方針を明らかにした。国でも県でもなく、まさに町民が小学校を解体から守ったのである。とはいえ、町長は新校舎の建設を諦めてはいない。現校舎は文化財として残すだけで、小学校としては使わないという方針である。

豊郷小学校の校舎は、補修を行えば耐震性に問題がないと日本建築学会も指摘している。解体し使用しない理由が、老朽化して危険であるということであったから、新校舎を建設する理由はもはや無い。歴史的価値を有する豊郷小学校は、地域の子供たちを迎える教育施設としてこれからも受け継いでいくべきだ。

町民側は、町政を変えるリコール投票にまで運動を高めていった。リコールをもとめる署名は、縦覧手続きをとるため氏名が公表される。狭い地域社会のなかで、2週間のうちに有権者の3分の1の署名が集まり、リコールにまで至ったことの意味は非常に重い。

理由を失っても公共事業を強行し、地域のアメニティを破壊してきた日本社会の縮図が豊郷町にはある。しかし反面、これまでにない積極的な側面もある。それは、かつての公害反対運動にもまして激しい運動が保全運動に見られるということだ。

豊郷小学校は、もちろん極めて高い歴史的価値を有しているが、建築物そのものの価値のみが重要なのではない。むしろ、三世代を通して同じ小学校を卒業し、母校を愛してやまない地域住民が生活していること、地域住民が主体となって地域環境を守っていることに大きな価値がある。豊郷の運動は、日本の環境保全運動が着実に成熟してきていることを示している。

これまでの日本経済は、地域の価値をあまりにも無視したものだったのではないか。旧いものは壊し、新しいものをつくるというまちづくりのあり方そのものの見直しが必要なのではないか。豊郷小学校は私たちに訴えかけているといえるだろう。

※豊郷小学校保存運動の経緯の詳細は、本多清春・古川博康『豊郷小学校は今』(サンライズ出版)、古川博康編『豊郷小学校の歴史と人びと』(豊郷小学校の歴史と未来を考える会)を参照されたい。

※リンク
豊郷小学校の歴史と未来を考える会:
http://homepage2.nifty.com/toyoshohozonkai/
 豊郷小学校保存運動についての情報が得られる。
豊郷小学校を愛するグループ 
http://www.hpmix.com/home/toyoshouaisu/AI3.htm
 豊郷小学校内部の写真がある。「ウサギとカメ」の装飾品は豊郷小学校の象徴でもある。ぜひご覧いただきたい。
みんなで考えような豊郷小学校
  http://www.1point.jp/~tete-toto/
日本環境会議 
http://www.einap.org/jec  

2003年3月7日

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■豊郷小学校保存運動にみる環境運動の新しい展開-「Asahi.com」

豊郷小学校メモリー

豊郷町立豊郷小学校-Wikipedia

豊郷小学校は今―校舎保存にかける住民の願い

本田 清春 / サンライズ出版


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by 2011-kyoto | 2012-06-26 11:52 | その他
2005-12-07 技術ニッポンの黄昏-「内田樹の研究室」
技術ニッポンの黄昏-「内田樹の研究室」
問題は技術ではなく、技術者の「エートス」にある。
日本近代の技術立国は、法的規制が要請する最低限の仕様を超えるレベルの精度や安全性を製品に賦与することに「誇り」をもつ技術者たちの「気構え」に領導されて可能になった。
本学の建築物のうち、さきの震災でびくともしなかったのは昭和初年に建築された建物である。
70年代に某ゼネコンが設計施工した建物はよれよれに歪んでしまった(私はいまジャッキアップして歪みを直したその「よれよれ」ビルの中で執務している)。
もちろんゼネコンの作った建物も建築基準法にはかなっていた。
だが、「60年に一度の震災」に耐えるほどの強度はなかった。
震災後、設計図を見比べてみたら、昭和初年にヴォーリズが設計した建物は地下の基礎が建築基準法の要求する数値の3倍の深さに達していた。
「見えないところ」に、建築後60年後の「顔をあわせる機会もないクライアント」のために、十分な気配りをすること。
そのような「強い想像力」をもちうることを「クラフトマンシップ」と言うのだと私は思う。
震災以前、本学に来てこの校舎を値踏みしたS和総研の調査員はこの建物を「ゼロ査定」した。
よれよれのビルを建てたゼネコンの社員やこの総研の調査員に顕著なのは「技術者のエートス」というものに対する敬意の欠如である。
クラフトマンシップというのは、本来「コスト」や「四半期決算」や「株価」とはかかわりのない次元のものである。
むしろ、それに対立するものである。
いま連日新聞を賑わしているのは、この「技術者のエートス」が「金勘定」の世界にまみれ、むしろその風下に立っている浅ましい姿である。


■技術ニッポンの黄昏-「内田樹の研究室」

内田樹-Wikipedia
内田樹の研究室

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

内田 樹 / 講談社



2011-07-13 知性の最高の状態―内田樹『最終講義』-「Philosophy Sells...But Who's Buying?」
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by 2011-kyoto | 2012-04-29 08:00 | その他
2012-04-14 能勢克男の8ミリ映画「疎水(1934年制作)」-「よい子の目と耳」
能勢克男は 1934年頃より8ミリ映画製作を始め、30本以上の作品を作りました。その中で代表的な作品をweb上で見ていただけるようにデジタル化しました。
作った当時はサイレント映画でしたが、音は後になってからつけたということです。(*)
(*)http://web.me.com/flower_children1/yoikonometomimi/home.html より抜粋紹介

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*疎水(1934年制作)

1934年(昭和9年)頃の疎水や岡崎近辺の映像をみることができます。 →こちらから見れます
ちなみに京都会館はこの26年後に建設されました。

能勢克男
-主な経歴
1894 生まれる
1919 東京帝国大学法学部卒業
1924 同志社大学教授
1929 弁護士開業
   京都家庭消費組合設立
1936 「土曜日」創刊
1938 「土曜日」発行責任者として検挙される
1940 山科刑務所から釈放
1946 夕刊京都新聞社(現・京都新聞)設立、
   編集局長
1964 京都洛北生協発起(現・京都生協)
1979 死亡 (**)
(**)http://web.me.com/flower_children1/yoikonometomimi/home.html より抜粋紹介

私の祖父が昭和のはじめに、子供たちの為に作った手作りの絵本です。
両親の引っ越しの際に出て来たものを、
興味のある方に見ていただけたらと思い、
デジタル化して公開させていただきました。

よい子の目と耳

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http://web.me.com/flower_children1/yoikonometomimi/Vol.1.htmlより掲載


■能勢克男の8ミリ映画「疎水(1934年制作)」-「よい子の目と耳」

■よい子の目と耳

京都新聞小史(年表)-「京都新聞社」
京都新聞-wikipedia
夕刊京都-wikipedia
新憲法制定期の『夕刊京都』-吉田 健二
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by 2011-kyoto | 2012-04-14 08:00 | その他
事業予算ゼロの施設から再生へ-和歌山市民会館の取り組みー
事業予算ゼロの施設から再生へ-和歌山市民会館で市民プロデューサー育成の取り組みー
この8年、自主事業予算はゼ口の和歌山市民会館。3年前、「貸し館だけでは職員が育たない。指定管理者が替わると職員の行き場がなくなってしまう」という危機感をもった館長が、芸術文化活動支援員の助言も入れて、文化庁の支援を導入し、市民と職員の中にプロデューサーを育て、新たな事業を興す一歩を踏み出しました。それから1年余で「近ごろ市民会館が変わった」という声を聞くようになりました。その経緯から教訓を探ります。
-事例報告 島田忠訓 和歌山市民会館班長
-コメンテーター 藤野一夫 神戸大学大学院国際文化学研究科教授
-司会・コーディネーター 佐藤克明
和歌山市民会館は、今年で9年、自主事業予算ゼ口が続いてきました。貸館としての利用も、現状ではまだ十分とはいえません。職員も減員となっています。しかし、アートマネジメントセミナー2010で経緯を報告した班長の島田忠訓さんは、「職員は一致団結して、“旭山動物園をめざしてがんばる"という気構えです。以前よりいい顔つきで動いています」といいました。公立文化施設の中には、予算と職員が減少し、ゼロになるという厳しい状態の中で、地域の人たちの文化の拠り所、心の拠り所としての課題にどう応えるか、これからの方途を模索しているところも少なくないと思われます。そうした共通する問題に関心をもち、打開の方向をさぐるきっかけとして、和歌山市民会館のこの3年余の大きな変化を生み出した事情と、これからの課題などを、このセミナーで「ゼロからの再生」として取り上げました。
①事業予算がなくても、事業をやろうという意思があるのなら、自ら財源を開拓する努力をしていくこと。文化庁はもとより、他の省庁にも文化に使える助成金があり、また、民間の助成財団が支援するものもある。初めに予算ありきではなく、初めにこの事業をぜひやりたいというエネルギーがあれば、知恵をだしてそうした助成金などを活用することもできるだろうし、かならず道は開ける。

②貸館としての利用度が低いというが、貸館の多くは「市民の自主事業」であるという意識を職員がもてば
どうだろうか。市民の文化活動を盛んにしてその量を増やせば、市民会館の利用も増えるし、さらにその質を
高める支援をしていけば、より高度なレベルの文化を求める人たちのニーズにも応えられるようになる。それ
を市民会館として支援していけば、会館としての自主事業がないとしても、地域文化の振興は進み、職員の中にも市民の中にも人材は育つ。

③市民の活動の量と質を高める支援をするためには、まず、評判がよくないという現状を変えて、市民との
協働を進めるために、館長、班長のほうから、「評判が悪いといわれてきた市民会館を変えたいので、率直に意見を聞かせてほしい」と呼びかけて、利用者懇談会を聞き、一歩踏み出すことから始めてはどうだろうか。

④財源については具体的に、文化庁の「文化芸術による創造のまち支援事業J(注:平成21年度で終了]のように、人材育成などに活用できて、対象経費の10割の支援が受けられるものもあり、その募集がまもなくあるので、それに申請してみてはどうか。

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■事業予算ゼロの施設から再生へ-和歌山市民会館の取り組みー
社団法人全国国立文化施設協会

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by 2011-kyoto | 2012-02-18 08:00 | その他
2005-10-10 京都会館建築ガイド-「京都会館シンポジウム実行委員会」
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■京都会館建築ガイド-「京都会館シンポジウム実行委員会」
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by 2011-kyoto | 2011-11-26 00:00 | その他
1965-12-01 京都会館:前川國男-「京都会館五年の歩み」
京都会館 前川國男
 京都会館が竣工して,もう5週年を迎えるという。私共にとって思い出の深い此の建築物が,その期待通り計画された通りの役目を京都の市民生活に対して果して来たかどうか,その設計の光栄をになった私共一番大きな関心事であることはいうまでもない事である。  

 時折り京都を訪れて此の建物のあたりを散歩して,正直のところその維持管理の行き届いている有様は私共にとって心暖まる思いである。予定した「つた」もどうやら順調に育って,疏水よりのたたずまいも一入落ちつきを加えて来た様に思われる。正面入口のピロチをくぐった中庭の感じは,一寸まだ不満足ではあるけれど,乙れも年と共に整備されてゆく事であろう。中庭正面の木立の扱い方もまだまだもの足りないけれど,やがて形のととのう時もさほど遠い事ではあるまい。此の建物をそれ程見事に管理しておられる当事者の方々の愛情と責任感とに私は何よりも深い信頼と敬意と感謝の念を捧げずにはおられない。ホントウに建築家冥利につきる話である。

 京都という伝統的な土地柄に,文化センターといった近代的な施設を,どんな形で建築すべきか。正直いってそんなにやさしい問題ではなかった。いうまでもなく京都は「今日」を生きなければならない,然し「今日」を生きるというのは一体どんな事なのだろうか。総じて人間が「生きる」というのはどういう事なのだろうか。京都は伝統の町という, 京都は美しい古都であるという。然しこの美しい古都も伝統の町も,かつて此の町を,かくも見事に作り上げ, かくも見事に生き抜いた京都の人達の「生けるしるしある」創造的な充実した生活をのぞいては,うつろな廃墟にすぎないだろう。近代化も必要である事は当然である, 然しそれがかつての京都をつくり上げた人達の充実した生命力のよろこびといったような貴重な伝統を傷つける様なものであってはならない。

 京都会館は近代建築技術をもって建設されねばならない,いかに設計したらこうした誤りを犯さずにすむかという点が,私達の最も大きな関心事であり同時に身に余る責任でもあった。しかも建築は何も建築家ひとりで出来る仕事ではない,大勢の協力者,施工者の協同作業である事は勿論であるが同時に施主側にその人を得るかどうかという大事な条件がある。永い間建築の設計という仕事にたづさわっててつくづく感じる事は, いい建築が完成される場合のめぐり合せという事であり,つねに何か運命的なものを感じる,あの時あの場合に,これこれの状況のもとで,これこれの人々の幸運の出合いがあったが為に建築が成功したという,そうした幸運なめぐり合せというたものを深く感じる次第である。

正直いって近代社会に不可欠な膨大な官庁組織複雑な行政機構といったものは, 凡そ建築芸術といった個性的な作業にはマイナスの要因として作用するのが普通である,こうした本質的に反個性的な組織が,本質的に個性的な仕事たとえば「建築」といった仕事に,原理的に反撥的な関係にある事は明らかである。にもかかわらずそうした仕事に成功したとしたならば,それはたまたま運命的に存在した組織の中の特定な個人達との尊い「出会い」であった筈である。此の会館の建設に当って,私達はそうした当事者の方々とのまことに幸福な「出会い」にめぐまれた。

 高山市長をはじめとする市の理事者あるいは議会の関係者の方々なかんづく小池氏をはじめ建設の直接の担当者の方々との幸福な「邂逅」がなかったならば,成功は覚束なかったという事を,今日なお思いを新たにする次第である。


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「京都会館五年の歩み」 - 京都会館五年の歩み刊行委員会 1965年12月刊














■京都会館:前川國男-「京都会館五年の歩み」
前川國男wikipedia
前川國男画像検索
生誕100年前川國男建築展

前川国男?賊軍の将

宮内 嘉久 / 晶文社

前川國男 現代との対話

松隈 洋 / 六耀社

建築家・前川國男の仕事

生誕100年前川國男建築展実行委員会 / 美術出版社

前川国男作品集―建築の方法

美術出版社


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by 2011-kyoto | 2011-11-02 00:00 | その他
1965-12-01 京都会館「五年の歩み」発刊によせて:京都市長 高山義三-「京都会館五年の歩み」
京都会館「五年の歩み」発刊によせて-京都市長 高山義三  
 勧業館前のうらさびた広場を記憶しておられる方ももおありでしょう。そこには手入れの行き届かない数本の立木と,心ない散策者に踏み荒らされた芝生があり,その向こうには青錆びた屋根をいただいた灰色の公会堂がたたずんでいました。夜ともなれば電灯の光もおぼろに,人通りもまばらな,まことに寂しい一角でしかありませんでした。

 その広場に高々と板塀がめぐらされ, 何百人もの工人の手で深々と土砂がえぐり取られ,巨大な鉄柱が次々に組みなされ,昼夜をわかたぬモーターの唸りが轟きわたること幾月,やがて壮麗な近代的建築が出現したのでした。どっしりとして重味があり,それでいて遠くは東山連峰,近くは勧業館や平安神宮を含む四囲の風物と,心にくいまでの調和を見せた瀟洒なたたずまい。それがわが京都会館であるこというまでもありません。

 文化活動とは, 「無」から何ものが高貴なものを生みだす創造活動をさしていうのですから,京都会館の建設それ自体が,一つの大きな文化事業であったといえるでしょう。

 しかしわたくしは,それにもまして会館の建設が,京都市民の内に潜む創造的意欲を刺激しそれを,思う存分発露させ発展させる「場」となることに,一層大きな意義を求め,それを念願したのでした。

 今, 京都会館開館5周年を迎えるに当り, その実績をかえりみますと, 市民の会館利用度はすでに極限に達し,和洋音楽,舞踊,演劇,各種講演,学会等々, 芸能と学芸のあらゆるジャンルにわたる文化活動の大波が,すさまじい勢いで会館に押し寄せ,それを圧倒するかのようにさえ感じられるのです。まととに篤異に価する盛況と申すべく,ただただ喜びに堪えないところであります。

 しかし,これらの活動も, 永遠に続く長い文化史の上から見ますならば, いまやっと緒についたばかりの動き,いわば一つ一つが生命の胎動であるにすぎないものといえるでしょう。それにしても,このはげしい胎動を抱きしめる京都会館の使命こそ, 実に重大なものといわなければなりません。なぜならば,会館は永遠に新しい文化創生の母胎となり,その産褥となり,揺りかごともなって, 日本文化の発展に偉大な役割りを果たさなければならないからであります。

 うらさびた広場を近代的風物詩に変貌させたその会館のように, 千年の古都わが京都に,四海に輝く不朽の文化が次々に打ち立てられる日の到来を, わたくしは, 切なる念願として, いつまでも持ち続けるでありましょう。


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d0226819_13225476.jpg「京都会館五年の歩み」 - 京都会館五年の歩み刊行委員会 1965年12月刊















■京都会館「五年の歩み」発刊によせて:京都市長 高山義三
関連リンク
1965-12-01 京都会館:前川國男-「京都会館五年の歩み」
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by 2011-kyoto | 2011-11-02 00:00 | その他
2005-07-31 日本その心とかたち (ジブリLibrary)-加藤 周一/ 徳間書店
自由、孤立、伝統の問題
 東京は無秩序の都市であるが、その隙間には秩序も見ることができる。《東京都庁舎》<丹下健三、1991年>の高層建築が建つ新宿副都心はそのような区域の一つだ。また、皇居の二重橋付近から銀座方面を眺めれば、高さがほぼ一定の建築物が作るスカイラインは秩序立った表情を見せる。
 ある空間のために建築物を設計するに際して、その個人的な美的観点から高さ、形、色彩を選ぶことは建築家の裁量に委ねられる。東京の街は考慮すべき美的調和を持たないため、建築家はその仕事において周囲の環境との関係に配慮する必要がない。事実、東京の街の景観の明らかな不調和が、建築家たちに冒険を許すある種の自由を与えているということは-もちろん予算の制限はついてまわるにしても-あるだろう。

日本における建築的自由というのは、本質的に建築的孤立を意味するのであり、加えて環境的制約の中で、建築家は一つないし二つの挑戦、あるいは選択をすることになるのである。その選択の一つは、周囲の環境を無視して、設計の初期の段階から建築物の孤立性を強調するということだ。そしてもう一つは、その建築を含む小規模の都市景観をつくり出してしまうことだ。
 その一番目の方法は白井晟一(1905-1983)の仕事に典型的で、彼の建築は事実上環境を無視し、周囲との関係を絶ってそれ自体の個性を主張する。

 日本の建築家における二番目の方法は、ミニチュアの都市をつくることである。孤立した作品をつくらざるをえないと感じた建築家は、与えられた空間内にいくつかの建築的要素を配置する。それは建築と周囲の環境との間に、部分的にはであるが関係をつくることである種の解決を図ろうとする、いわばこだわりの態度である。前川國男(1905-1986年)は、そうした態度を保った建築家である。20代の一時期にル・コルビュジェのもとで学び、機能主義を標榜した前川の第一の方法は、比較的整然とした環境をできうるかぎり選んで、その中に建築を置くというものだ。前川の作品の多く、とくにコンサートホールや美術館といった公共建築は公園内に建てられている。

 よりより立地を選んでそれを利用する、広場を設ける、建築内に中庭や沈床部分を設けるという前川國男の三つの手法は、東京よりもいっそう条件に恵まれた京都の平安神宮近くの《京都会館》(1960年)で鮮やかに活かされた。回廊に囲まれた中庭は通りから出入りができ、東山を借景として眺めることができる。西に面した大きな壁面を疎水が映し、この建築を特徴づけている水平方向の線を強調する。これは、戦後日本の近代建築におけるひとつの到達点であると言えるだろう。

日本その心とかたち (ジブリLibrary)

加藤 周一 / 徳間書店


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by 2011-kyoto | 2005-07-31 00:00 | その他
「東京文化会館・京都会館の改修工事背景に関する比較研究」-砂川 慎吾/山田 裕史
「東京文化会館・京都会館の改修工事背景に関する比較研究」-砂川 慎吾/山田 裕史
(2003年度 卒業研究 東京理科大学 工学部第二部建築学科 山名善之研究室)

■YAMANA Lab.-東京理科大学 工学部第二部建築学科 山名善之研究室
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by 2011-kyoto | 2004-03-31 00:00 | その他
1961-07-20 京都会館 (作品) (日本建築学会賞特集) 前川國男-建築雑誌
表彰作品 京都会館 -前川国男

建築はひとりの仕事ではないという事,その事がこの30年建築に物心ついてこのかた私の脳裏をはなれなかった事のひとつであります。建築がひとつ誕生する,そしてそれが多くの人々によって賞讃され又拍手されるという事は,少くとも建築家冥利につきる事であるには相違ないのですけれど,そのひとつの建築の生れるまでの企画からそして施工に到る長い時間にわたって,この建築に注がれた多数の人々の心労苦心を思いかえす時,ただ一人の建築家が拍手され喝采される事の何か腑におちない気持,そういったものを大方の建築家達は一体どう考えているのか,又どう考えたらいいのか私は常に満足のいく解答を得る事ができないままに今日に到ってしまいました。あの人がもしもあの時ああいってくれなかったら,そしてこの人があの時こうしてくれなかったなら恐らくこの建築は今日こうした姿で建てられなかったかもしれないといったいろいろな事柄が,企画から設計,施工に到る長い期間に必ず,それも夥しい数におよんでいる事を発見するのが普通の事でしょう。
われわれの周囲をとりまく無数の出来事が無数の所謂因縁の目も及ぱぬきづなによって結び合わされている事は当然でありますが建築が出来るにも,それが生れるまでの無数の因子,あるいは運命といったものを思わずにはいられない。企画から設計からそして施工に到る長い過程に生起したあらゆる事柄,そしてそれが幸福な組合せにめぐりあった時のみによい建築が生れる。そしてそれが不幸な組合せであった場合にはどんな名建築家がおったとしてもロクな建築になり得ないという事をしみじみと感じている次第です。
そうした意味においてこの京都会館はひとつの貴重な経験であり又実例であった事を思わずにはいられない。私共がたづさわる仕事はいろいろな事由から公共建築が多いめぐりあわせになっているような気がします。公共建築はどうしても予算的に非常に切りつめられたものである事が通例であります。京都会館もその例にもれず予算は非常に窮屈なものでありました。しかも今回学会賞をいただく光栄をかち得たとすれば,先程申したこの建築を成切させる種々な条件がわれわれにとって非常に幸いしたという一事につきると思います。
いい音楽堂が欲しいという京都市民の熱望にこたえて,高山京都市長をはじめ市の理事者,当事者達の熱意,それは御世辞ではなく,実にこの建築の実現に大きな役割りを果していました。建築ができたあとも,この会館を京都市民のあるいは京都の青少年の,ひとつの「生活道場」として活用していくという市長をはじめ当局者の熱意には,正直のところ甚だ心をうたれた次第ですが更に設計から施工の実務に際しての,市の建築担当の小池氏をはじめとする建築課の諸氏の御協力は此の建築の成功に特筆大書して記さねばならない貢献をしておられる事をこの際特に明らかにしたいと思います。
役所のしきたりも規則もわきまえぬ私達が公共建築を担当します際に常々戸迷いする問題を,それが設計の,或は監理のさまたげにならぬよう,又は無益のエネルギーの損失にならない様に,細心の注意と親切をもってうまくかじをとっていただいたのは他ならぬ小池氏をはじめとする市の建築課の方々でありました。私達が貴重な市民の金を自信をもって無駄なく使い得たと公言し得る直接最大の功労者はこの方々であったといっても過言ではないと思います。私達の会館が日本建築学会賞に価するというなら,その光栄は市長をはめじ企画の当初より辛酸をなめられた当局者,そして苦労された施工者の方々は勿論のことでありますが,この縁の下の力持ちに甘んじて終始私達を助けていただいた此の方々にも是非ともわけで頂きたいと願わずにはいられない。
建築的評価についてはそれぞれの専門家,そして誰よりも京都の市民が時と共にその審判を与えて下さる事と思いますが,更にわれわれの立場から一言許して頂けるならば,もしも30年前あの不吉な日本の激動期に於いて今日の京都会館が建てられたとするならば,その当時所謂日本趣味建築で私達を苦しめられた諸氏はこの建物にどんな批判を与えられたであろうか。それを知りたい気持ちにかられる次第であります。
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◎京都会館
正会員前川国男君
数々の古い名建築が残り,千有余年にわたる古都としての雰囲気が今なおゆたかに漂っている京都東山地区に近代建築を建設するという課題は建築家にとってなかなかむづかしい問題である。このことは、過去において、無慚に失敗した幾つかの例があることによってもよく理解されるのであるが,京都会館はこの難問に見事に答えたものである。
二つのオーディトリウムと一つの国際会議場をL字形のブロッグプランに収めた簡潔な処理。打放しコンクリートを主調とし,鉄・硝子・石・木材等の生のままの素材を駆使して形成された空間が,禅寺のもつ素朴ではあるが力強い荘厳にも似通うものをいみじくも現出していること。オーディトリウムの外側の壁画に試みられた陶板画が,強く重い調子の中に明るい華やかな和らぎを与えている効果, これは純粋芸術と建築との見事な融合を示すものとして高く評価されるものであるが, これらの綜合として,京都会館は禅寺が昔の社会の精神的道場としての造形を持っていたのに対し,近代市民生活の共同の場としての造形を打出すのに成功している。即ち前記のような難問を乗り超えて,現代の荘厳を実現し得たものであり, これは世論も遍く認めるところであって, この故を以て,この作品に対し日本建築学会賞を贈るものである。

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■京都会館 (作品) (日本建築学会賞特集) 前川國男-建築雑誌
建築雑誌 76(900), 368, 1961-07-20 社団法人日本建築学会

1965-12-01 京都会館:前川國男-「京都会館五年の歩み」
2011-03-18 京都会館保存要望書-「社団法人日本建築学会」
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by 2011-kyoto | 2001-07-20 00:00 | その他